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親鸞聖人の教えを聞きたい人の行き着く場所
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東京砂漠に弥陀の法水昭和30年代に東京で真実に出遇った稲田さん(仮名)は、初めて高森顕徹先生を東京に招待した一人です。関東の親鸞学徒がわずか10人だった時代から、首都の法輪はいかに拡大していったのか。稲田さんに、その思い出を聞いてみました。 ──高森先生に会われる前から、仏法を聞き歩いておられたと聞きました。 私は、真宗の盛んな熊本県で生まれ育ちました。 ──戦前には、末寺や在家でも、後生の一大事が話されていたのですね。本会のことは、どのように知られたのでしょうか。 戦時中は仏法から遠ざかったものの、敗戦後、19歳で上京してから再び、 『顕正』に圧倒される 中岡さんから、高森先生の著書『顕正』を貸してもらって初めて、 ──今後の抱負を。 現在、私は親鸞聖人のみ教えを、ご縁ある人にお伝えしています。 この素晴らしい弥陀の法水を、多くの方にお届けしたいと思います。
要の抜けた本願寺の説教
私は二十代のころ、東京の築地本願寺(西)に、月二、三回、二年間通っていました。 当時、説教のある一階の総会所は、年寄りがちらほら。一方、詩人などが話していた二階の文化講座には、若い人が大勢集まっていました。 一階では、若者は私だけだったので、隣のお婆さんから、 「若い身空で、こんな所に来るなんて、あんた、病気持ちか、夫婦仲が悪いんだろう」 と尋ねられました。 「そんなことありません。じゃあ、お婆ちゃんは何でここに来ているの」 と問い返すと、 「いやあ、家に嫁といるより、ここのほうが気楽でいいから」 と答えたのです。 ほかにも、 「京都の本願寺で、五回もおかみそり(注)を受けたのよ」 と、おかみそりを極楽往きの切符のように思って自慢する人や、説教中に舟をこいだり、弁当を食べにきているような人もありました。 桐渓順忍さんに、参詣者の一人が、 「機受の心相(救われた人の心のすがた)とは、どんなことですか」 と質問した時のことです。桐渓さんは、 「こんな大事な問題は、布教使の部屋に来て、一対一で聞くべきで、聴衆の前で質問してはなりません」 と言って、プイと控え室に戻ってしまったのです。 「何なの、あれ」 「答えられないだけじゃないの」 と思わず、隣の人と顔を見合わせたのでした。 「六首引き」のご和讃をはしょって、「三首引き」にしたり、『正信偈』の代わりに、短い『讃仏偈』を歌ったり。勤行さえまともにしないのです。 浅草の東京本願寺(現・東京東本願寺)にも行きましたが、オーケストラの指揮者よろしく、小坊主がタクトを振りながら勤行したのでビックリしました。 西でも、東でも、「後生の一大事」は、ついぞ一言も聞けませんでした。話すことといえば、 「嫁姑が仲良く暮らすには、我慢が大事」 とか、 「腹がたっても、口に出さないのが、家庭円満の秘訣」 など、家庭内での『どう生きる』のみだったので、仏法の「ぶ」の字もないなあと、思うばかりでした。 (注)おかみそり……浄土真宗で在家の男女が、その宗門に入る儀式。仏前に列座した信者の額上に、法主が剃刀を当てて剃髪の意とする。 (注)桐渓順忍−勧学寮頭(本願寺最高の学者)になるが「本願寺なぜ答えぬ」で論破されている。 |
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