浄土真宗寺院の未来を考える
サイトマップ | お問合せ 
抱える問題と変革への提言
 

本願寺門主の本を「検証」する(7)

親鸞聖人
 人生の目的は弥陀に救われること
善慧房
 弥陀の救いは人生にない



 本願寺門主が出版した「朝には紅顔ありて」には、

「なぜ生きるのか」の「答えは見つからない」と書いてあります。

 それがいかに親鸞聖人の教えに反する誤りであるかを、5回にわたって、聖人のお言葉を根拠として明らかにしてきました。

 さらに、聖人34歳の時になされた、体失不体失往生の諍論の内容を知れば、本願寺の間違いは一層明白となります。

 親鸞聖人が法然上人のお弟子であられた時、「人生の目的は、あるのか、ないか」で、法友と激しく争われた。それは、次のような論争でした。

   *     *

 ある時、善慧房証空が、説法をしていた。

「釈尊がこの世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願一つを説かれるため。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、有り難いお約束です」
 その時、親鸞聖人の声が善慧房の説法を遮った。

「お待ちください!」

 ムッとする善慧房。

「何でしょうか。親鸞殿」

「先ほど、あなたは、阿弥陀如来の本願は、死んだら助けるお約束、と言われたが、この親鸞は、現在ただ今、救いたもうた本願を、喜んでおります」

 善慧房、驚いて、

「何を言われる。今救われたとな、そなたは。この世は所詮、どうにもならぬもの。この世で救われたということなど、あるはずがないではないか」。

「この世さえどうにもならぬ者が、死んで、どうなれましょう。今、溺れて苦しんでいる者に、土左衛門になったら助ける、という人がありましょうか。今、腹痛で苦しんでいる者に、死んだら治すという医者もいないでしょう」

 堂内はどよめき、一気に緊張した。

「まあまあ、親鸞殿。また後ほど」と、とりなす者もいたが、親鸞聖人は一歩も引かれない。

「いいえ、釈尊ご出世の、ご本懐の中のご本懐である、阿弥陀如来の本願のこと。皆さんにもハッキリと、知っていただかねばなりません」

 いらだつ善慧房だが、そこは学者らしく、こう反撃する。

「親鸞殿、幾らあなたがもっともらしいことを申されても、経典にないことでは、仏教ではない。お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか」

 聖人、いよいよ弥陀の本願を開顕する勝縁来たり、と微笑なされて、

「もちろん、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると、仏の命を懸けて、誓っておられるではありませんか」。

 一瞬、あきれ顔の善慧房、高笑いしたかと思うと、勝ち誇ったようにこう言い放った。

「ハハハハハ……。親鸞殿。それこそ、死んだら助けるということではありませんか。死なねば、生まれることはできませんからね。やはり、死んだら極楽へ生まれさせる、というお約束ではありませんか」

 しかしその時、聖人のお言葉が、四方を圧した。

「善慧房殿、あなたの誤りはそこにあるのです。阿弥陀仏が必ず生まれさせると誓われたのは、肉体だけのことではない。心のことなのです。私たちの暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く魂を、歓喜の泉に生まれさせると、弥陀は誓っておられるのです」

 ざわめく聴衆の中で、一人の老女がこうつぶやく。

「心を生まれさせる……?」

 親鸞聖人、大きくうなずかれ、

「そうです。心をです。何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。なぜ、生きねばならないのか、分からないでしょう。人生の目的が分からず、死んだらどうなるかもハッキリしない、私たちの、その後生暗い心を、後生明るい心に生まれさせる、というのが、弥陀の本願ではありませんか」。

 やがて、法然上人が、こう判定を下された。

「そうだ。親鸞の言うとおりじゃ。今、救われずして、どうして未来、助かるだろうか。阿弥陀如来の本願は、この世から未来永劫、助けたもうお約束。誤ってはなりませんぞ」

 後に浄土宗を開いたほどの善慧房証空も、その過ちを、この時聖人に徹底的に打ち破られたのであった。

 これは今日、親鸞聖人の三大諍論の一つとして有名な、
体失不体失往生の諍論」と伝えられています。
「弥陀の救い(往生)は死後だから、人生にはない」とする善慧房の主張は、体失往生。
体失とは、肉体を失う、という意味で、死後のことです。

 それに対して親鸞聖人は、
「弥陀の救い(往生)は、生きている時に遇える」と、不体失往生を説かれました。

 弥陀の救いは、すべての人間の究極の願いを満たす救いであり、それに平生に遇えるのだから、「『人身受け難し、今已に受く』(釈尊)と弥陀の救いに遇って、大満足の身になることこそが人生の目的である」と、親鸞聖人は断定されているのです。

 弥陀の救いによって、人生の目的を鮮やかに達成された聖人は、その弥陀の本願を破壊する善慧房の主張を、とても聞き流すことはできませんでした。

 すなわち体失不体失往生の諍論とは、「人生に目的はない」と言う善慧房と、「ある」と断言される親鸞聖人との一騎打ちだったのです。

なぜ生きるの答えはない。探し続けることが素晴らしい」という「本願寺の教え」は、まさに、生きている間は救われぬという善慧房の主張そのものです。

 自身に、弥陀に救い摂られた歓喜も満足もなければ、「生きる目的はない」と誤るのも無理はありませんが、それは断じて親鸞聖人のみ教えではないのです。

人生には、とても大事な目的がある。親鸞は達成できた。皆さんも必ずできるから、早く達成しなさいよ

 人生の目的成就の喜びを、親鸞聖人は、法友と争ってまで叫び続け、書き続けられたではありませんか。

 これが、聖人90年のご生涯の一貫したメッセージであり、聖人の全著述は、そうしたお言葉で満ち満ちているのです。

 その親鸞聖人のみ教えを伝えるために門主が書いたという本に、聖人のお言葉が全くないという不可解な事実も、これでうなずけます。聖人に打ち破られた善慧房の主張を書いていながら、全く逆の聖人のお言葉を示せるはずはないからです。

 とすると本願寺は、この体失不体失往生の諍論も、ご存じないのでしょうか。
 知っていて、なおかつ「なぜ生きるの答えはない」と言うのなら、弥陀の救いに遇うことは、生きる目的ではないとでも、言いたいのでしょうか。

 それとも、そんな体験は親鸞さまだけのことで、我々とは無関係、とでも言うおつもりでしょうか。

 聖人の決死的大諍論を、本願寺は一体どう理解しているのか、ぜひともお尋ねしたいものです。




「体失不体失往生の諍論」の根拠

 聖人のたまわく、「先師聖人(法然上人)の御時、はかりなき法門諍論のことありき。善信(親鸞聖人)は
『念仏往生の機は体失せずして往生を遂ぐ』という。
小坂の善恵房は『体失してこそ往生は遂ぐれ』と云々。この相論なり。(以下略)」
(覚如上人『口伝鈔』)

 

HOME


リンク
浄土真宗親鸞会
親鸞会・父母の会
浄土真宗講座
仏教講座
目次
本願寺門主の本を「検証」する
なぜ聖人のお言葉がないのか
人生の目的成就の宣言
聖人90年のお叫び
信楽まことにときいたり
「この世で救われた」というのは間違いか
人生の目的は弥陀に救われること
 
新着情報 | お問合せ
ご感想をお寄せください。お待ちしています。