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抱える問題と変革への提言
 

西本願寺門主の本を「検証する」(5)


 本願寺門主の著した「朝には紅顔ありて」は、「人はなぜ生きる」に始まり、

この書が〈生きる意味や喜びを見いだして下さるきっかけになれば私の本望〉
(186ページ)

と結ばれています。

 ならば当然、親鸞聖人の教えられた人生の目的が、明らかにされているのだろうと、だれもが期待します。


「人生の目的はある。だから早く達成せよ」


 聖人90年のメッセージは、これ以外ありませんでした。

 ところが本願寺は、「なぜ生きる」の「答えは見つからない」と言い放ちます。「人間はその答えを探しに生まれてきた」のであり、答えが出なくとも悩み考えることが素晴らしいと、聖人と逆の公言をしてはばからないのです。

 親鸞聖人が、必ず人生の目的が完成できます、しかもそれは一念で果たせるのだと教えられた、次のお言葉を解説します。

「若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ」

 最初に「若不生者のちかい」とおっしゃっているのは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

 阿弥陀仏の本願とは一言でいえば、”すべての人を必ず「信楽」に救わずばおかぬ”というお約束です。

「信楽」の「信」は大安心の明るい心、「楽」は字のとおり大満足の楽しい心をいいます。だから「信楽」とは大安心大満足の心のことで、『歎異鈔』では「無碍の一道」と言われています。今日の言葉でいえば「絶対の幸福」であり、これがすべての人の求めている人生の目的成就した世界です。

 人は皆、毎日同じことを繰り返し、しかも苦しんでいます。平均寿命が延びたといっても70年、80年などアッという間です。これでは死ぬために生きるようなもので、何のために生まれてきたのか、なぜ生きねばならないのか分かりません。

 生きる目的が分からず、不安な暗い心で苦しんでいるすべての人を、必ず「信楽」と晴れて大満足させてみせる、というお約束が阿弥陀仏の本願なのです。

 ところが私たちは、そんなとてつもない弥陀の誓願を聞かせていただくと、

「すべての人とおっしゃるが、私も助かるのか」

「本当にこの世で絶対の幸福に救われるのだろうか」

など、必ず疑いの心が出てきます。

 すべての人間は本願を聞けば必ず疑うと見抜かれ、その疑いを晴らすために阿弥陀仏が誓われたお言葉が、「若不生者不取正覚」です。

 これは「若し生れずば、正覚を取らじ」と読みます。意味は、

「すべての人の心を必ず信楽に生まれさせてみせる。もしできなければ命を捨てる」ということです。

「正覚」とは「仏のさとり」。「猿は木から落ちても猿だが、議員は選挙に落ちればタダの人」と言った人がありますが、仏が仏のさとりを捨てたら、ただの迷いの人間になってしまいます。だから「正覚」は仏の命です。

 阿弥陀仏は「若し生れずば、正覚を取らじ」と、「若し」の一字に命を懸けて、「必ず信楽に生まれさせてみせる。もしできなければ、この弥陀は命を捨てる」と誓われているのです。

 例えば銀行に3000万円借りに行っても、簡単には貸してくれません。不良債権が積もる今日はなおさらです。私が本当に返せるか疑っているのです。

 その銀行の疑いを打ち消すには、担保を入れればよい。たたき売りしても5000万の金塊を抵当に入れれば、銀行の疑いは無くなり、安心して貸すでしょう。

 重要な約束で相手の疑心を晴らすには、大事なものを担保に入れます。阿弥陀仏は、すべての衆生の疑いを晴らすために、「これでもまだ疑うか」と、一番大事な「正覚」を担保に入れられているのです。

「必ず信楽に生まれさせてみせると、阿弥陀仏が命を懸けて誓っておられるから、その弥陀のお力によって、現在ただ今、信楽の身に救われた、という時が必ず来るのだぞ」と親鸞聖人が言われたのが、

「若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり」

のお言葉です。

「まことに」とは”必ず”ということです。本願どおり信楽に救い摂られ、

「よくぞ人間に生まれたものぞ」

「生きるとは、無上の幸せになるためであった」

と、人生の目的がハッキリ知らされる時が”必ず”来るのです。

 こんな聖人の明らかなご教示を無視して、生きる目的はないなどと書いた本願寺は、
「本願知らず」と言われても仕方ないでしょう。

 続いて聖人は、

「一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ」

とおっしゃっています。

一念」とは、何億分の一秒よりも短い時間をいいます。阿弥陀仏は、私たちの暗い魂を一念で信楽の明るい心に生まれさせ、人生の目的を果たさせてくださるのです。

一念慶喜する」とは、救われたら天に舞い地に躍ります、喜びの中の喜びが起きるということです。

 生きている今、信楽に救われた人は、死ねば必ず阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、仏に生まれられるとハッキリしますから、最後に「往生かならずさだまりぬ」と言われています。

往生」とは、弥陀の浄土へ往って仏に生まれることですが、だれでも死んだら極楽へ往けるのではありません。往生できるのは、平生の一念で「信楽」に救われた人だけですから、

「一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ」

と言われているのです。

 弥陀の誓願どおり、信楽に救われて人生の目的が完成できる時が必ず来ます、だからそこまで進みなさいよ、と親鸞聖人は説き続けてくださっているではありませんか。

 この聖人のお言葉を、本願寺がご存じないのでしょうか。自ら、

「親鸞聖人のお言葉には、絵空事ではない魅力があり、
 私たちのこころを惹きつける強い説得力がある」(124ページ)


とまで書いているのに。

 その一方で、肝心の聖人のお言葉がこの本に見当たらないのは、矛盾か、喜劇か、一大悲劇と言うべきでしょうか。

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目次
本願寺門主の本を「検証」する
なぜ聖人のお言葉がないのか
人生の目的成就の宣言
聖人90年のお叫び
信楽まことにときいたり
「この世で救われた」というのは間違いか
人生の目的は弥陀に救われること
 
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