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抱える問題と変革への提言
 

西本願寺門主の本を「検証」する(3)

人生の目的成就の宣言
「噫、弘誓の強縁に今あえた」



 本願寺門主が出版した「本願寺の教え」には、「人はなぜ生きるのか」の「答えは見つからない」と書いてあります。

 これが親鸞聖人の教えなのかどうか、二回にわたり検証してきました。
 その誤りは『教行信証』の次のお言葉でも明らかです。



「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
 真実の浄信は億劫にも獲がたし」



と冒頭に言われています。

「噫」と言われているのは、かつて体験したことのない驚きと慶びの、言葉にならぬ言葉です。

「あら辛と、言うは後なり、唐辛子」で、知らずに唐辛子を口にほうり込めば、「あぁっ!」と思わず知らず叫ぶでしょう。

 30年ぶりの旧友にバッタリ出会えば、「あらー!」と言ったきり、しばらくは言葉も出ないでしょう。

 聖人の「噫」は、そんな程度の驚きや喜びではなかったのです。

 それは次に、
「多生にもあえぬ弘誓の強縁にあえた」と言われていることからも明らかです。多生にもあえぬことにあえたのです。
「弘誓の強縁」とは、私たちの苦悩の根元を破り、絶対の幸福にしてみせるという強烈な弥陀のお力のことです。
 雨に「あった」といえばぬれたことであり、火事に「あった」といえば家が焼けたことです。
「弘誓の強縁にあった」とは、苦しみに沈み切っていた聖人が、弥陀のお力で、絶対の幸福に救い摂られたことの告白です。
「生きることは旅すること、終わりのないこの道」
 美空ひばりが歌ったように、私たちは幸せを求めて、終わりのない旅をしているのでしょう。
「この坂を越えたなら、しあわせが待っている、そんなことばを信じて、越えた七坂四十路坂」の歌(都はるみ)に、多くの人が共感しました。

 苦しい人生の坂道を、「この坂さえ乗り越えたなら、幸せになれる」と固く信じ、必死に上ってみると、そこにはさらなる急坂がそびえています。ああ、また駄目だったと愕然としながらも、よろめきながら立ち上がり、「今度こそ、今度こそ」とあえぎながら上っていきます。
 こんなことの繰り返しで、すべての人が一生を終わるのは、家康の晩年の言葉でもよく分かります。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」(家康)
 周囲もうらやむ結婚をし、マイホームで子育てに専念、絵に描いた暮らしをしていたはずのある主婦が、不倫の泥沼にはまった経緯をこう語っています。

「夕日を背中に受けながら、お風呂でタイルを磨いていた時のことです。
 明日のこの時間もやっぱりこうやってお風呂の掃除をしているんだろうな、このまま同じことがずーっと繰り返されていくのかしら。 
 そう思うと急にむなしくなり、これが幸せ?何か違うって思ったんです」

 NHKのテレビ番組「みんなのうた」のこんな歌に、ヤングママは涙しながら聴き入ったといいます。 



「いそがしさに追いたてられて、
 いつのまにか過ぎてゆく日々、
 しあわせどこにおいてきたの……、
 きっとしあわせいつかわかるもの、
 ずっとしあわせおいかけていよう」
    (「きっとしあわせ」)



 結婚当初は、沢山の花に囲まれ、足が宙に浮き上がるほど思い切り喜びました。
 お母さんになったその時も、あふれる涙が止まらないほど感動しました。
 ですが、忙しさに追いたてられ、いつの間にか過ぎていく日々に今はもう、すべてが夢のようにしか思われません。
 再放送のリクエストや、楽譜を求める声が殺到したのは、こんな歌詞に、自分の人生を重ねているからでしょう。

 結婚したら、子供ができたら、マイホームを建てたら、お金があれば、仕事で成功すれば……きっと幸せになれると信じて生きてきましたが、やっと捕らえた楽しみも一夜の夢、今度こそつかんだと思った幸福も一朝の幻、失意の先には、もっと厳しい坂道を上り続けなければなりません。

 結局死ぬまで「しあわせおいかけ」ているだけではないでしょうか。
「答えが出なくとも、探し続けることが素晴らしいのだ」と本願寺は言いますが、見つからぬ答えを探し続けるとは、死ぬまで坂道を上り続けることになります。それは、死ぬまで苦しみ続けることにほかなりません。

 50代をピークに世代が上がるにつれて、急増する自殺者数は、その実証でしょう。 どうして、それが「素晴らしい」といえるのでしょうか。

 生きれば生きるほど、苦しむだけの一生なら、「死んだほうがまし」と命を絶つ人を止める言葉もないでしょう。

 私たちは、本当の幸福を得るために生きているのです。

 この人生の目的が成就できたことを、「弘誓の強縁にあえた」と聖人は言われているのです。
「真実の浄信を獲た」とは、探し求めていた歓喜の生命が求まったということ。
 それはもう、百年や二百年求めて得られるようなちっぽけな喜びではありませんでしたから、

「多生にもあいがたし、億劫にも獲がたし」

と言われているのです。

 多生億劫求めても、得られぬものが得られた喜びは、言うこと絶えて言絶えて、「ああ」と言うよりなかったのです。
 そして、くめども尽きぬ大海のように、どれだけ説いても説いても説き尽くせず、いくら書いても書いても書き足りぬ法悦を、主著『教行信証』や多くのお聖教に書き残されています。
 そして、その中に切々と、

「現在"人間に生まれてよかった"と生命の大歓喜を得て、未来永遠の幸福に生かされる身になることこそが、人生の目的である」

と説かれているのが、親鸞聖人の教えではありませんでしたか。

 一体、本願寺はこれらの聖人のお言葉を何と見ているのでしょう。

 親鸞聖人の教えを広めるために書いたという門主の本に、肝心のその聖人のお言葉が全く見当たらないのは、このような聖人のお言葉を全く知らないのではなかろうか、と想像できないことまでが想像されてきます。

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目次
本願寺門主の本を「検証」する
なぜ聖人のお言葉がないのか
人生の目的成就の宣言
聖人90年のお叫び
信楽まことにときいたり
「この世で救われた」というのは間違いか
人生の目的は弥陀に救われること
 
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