浄土真宗寺院の未来を考える
サイトマップ | お問合せ 
抱える問題と変革への提言
 

西本願寺新門の言葉に期待できるか?


「世のなか、安穏なれ」
 これが、西本願寺の親鸞聖人750回忌法要(平成23年予定) のスローガンという。
 聖人『御消息』のお言葉ではあるが、このあとに続く「仏法ひろまれ」は、なぜか省かれてしまっている。
「『世のなか、安穏なれ』だけでは平和運動団体のスローガンと同じでは?」。内部からも、そんな声がささやかれているらしい。
 加えて本願寺門主は、3月上旬、龍谷大学で行われたシンポジウムで、


「無理矢理に仏教徒にしようとする行動や、
 仏教以外では平和にはならないという考えは傲慢だし、他の宗教信者の反発を招く恐れがある」


と発言している。
 仏教を伝えたいという布教の熱意があるのだろうか。ひざ詰め談判でトコトン議論することを否定して、他宗教者の機嫌を損ねない、事なかれ主義になっている。

      ■

 そんな姿勢では、本願寺に未来はないと感じてか、4月1日の『本願寺新報』は、新門(門主の長男)が結婚式の席上(3/25)で、次のように語ったと報じている。

「教団を取り巻く状況は、もはや危機的な状況です。念仏の声を子や孫へ伝えていけるのか、心もとない気がいたしますが、宗祖親鸞聖人をはじめ永きにわたり浄土真宗のみ教えを伝えてこられた方に思いをはせますと、み教えがすたれるということは申し訳なく、また、あってはならないことです」


としたあとで新門は、


「現代の危機の中でみ教えを伝えることを最優先に全力で取り組んでいく」

と結んだ。父親とは打って変わり、布教に前向きではあるようだ。

 だが、やはり気にかかるのが【全力で伝える】と言うその「教え」である。

『教行信証』や『御文章』に書かれてあるとおりに、忠実に全力で伝えるというのなら、大賛成だが、今の本願寺に、果たしてそれが期待できるだろうか。

      ■

 かつては2000万門徒といわれ、日本最大の教団を自負していた本願寺が、なぜ、祝いの席で自ら危機的状況を訴えねばならぬほど凋落してしまったのか。
 本願寺はそれについて、


「現代は真宗の教えが伝わりにくい時代」
「農村の過疎化で、親から子、子から孫への法義相続が希薄化した」

など、時代や社会のせいにしているが本当にそうだろうか。
 真因は違う。親鸞聖人や蓮如上人の教えを、忠実に布教しなくなったからに尽きる。
 両善知識が命懸けで明らかにされたのは、「なぜ生きる」の真実だ。それは時代や社会の有為転変とは関係なく、全人類の救われるたった一本の道である。「なぜ生きる」一つが説かれている2000畳には、老若男女、海外からも法友が馳せ参じている。
 ところが本願寺は、

「なぜ生きる。その答えは見つからない」

という。親鸞聖人、蓮如上人の教えに真っ向から反することを、堂々と本にまで書いて出すような無信仰が、今の衰滅を招いたのである。


■人生の目的完成の宣言

「み教えを伝えることを最優先に全力で」というのなら、新門にはまず親鸞聖人のみ教えのすべてをあらわした一枚看板の言葉、「平生業成」を明らかにしてもらいたい。

平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「」という字であらわし、完成の「」と合わせて「業成」といわれる。「平生業成」とは、まさしく、人生の目的が現在に完成する、ということだ。

 親鸞聖人の『教行信証』を拝読すれば、人生の目的が厳然として存在することは明らかではないか。
 人生の目的といっても本当は、一生や二生の問題ではない。多生永劫の目的を持つ生命だから、 「人命は地球よりも重い」 といわれるのである。親鸞聖人の著述が喜びで満ちているのも、この多生の大目的が成就されたからだ。
 趣味や生き甲斐の喜びは続かない、ほんのしばらくで色あせる。
「今までで、いちばんうれしかったことは?」
「どんな時が幸せ?」
と聞かれて、即答できないのは、夢や幻のような幸せしか知らないからだ。
 ところが、「『教行信証』全巻には大歓喜の声がひびきわたっている」 と文芸評論家・亀井勝一郎が驚嘆したように、天におどり地におどる喜びが、『教行信証』には一貫している。


「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教・行・証を敬信して、殊に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここを以って聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり」
    (『教行信証』総序)


「ああ、幸せなるかな親鸞。何の間違いか、毛頭あえぬことに、今あえたのだ。絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることはなかったに違いない。
 広く仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人はまれである。その稀有な、弥陀の誓願を説く印度・中国・日本の高僧方の教導に、今遇うことができたのだ。聞くことができたのだ。この幸せ、何に例えられようか。どんなに喜んでも過ぎることはない。
 それにしても知らされるのは、阿弥陀如来の深い慈恩である。何とか伝えることはできないものか」



「よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
ふかく如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚をあおぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(中略)
ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
もし、この書を見聞せん者は、信順を因となし、疑謗を縁となし、信楽を願力にあらわし、妙果を安養にあらわさん」
     (『教行信証』後序)


「金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する。
 崩れるものに樹てる人生は、薄氷を踏むように不安だが、たとえ釈尊、善導、法然さまがゆらごうとも、心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞は、なんと幸せ者なのか。ますます阿弥陀如来の慈愛の深きを知らされ、師教の高恩を仰がずにおれない。
 限りなきよろこびは、返し切れない報恩に親鸞を泣かす。この弥陀の大恩を念うとき、世間の恥辱など、ものの数ではありえない。
 この書を読む人には、信ずる人もあろう。そしる者もいるだろう。いずれも、それを因とし縁として、弥陀の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい。そう念ずるばかりである」



     ■

 この聖人の感動的な告白を聞いてもなお、本願寺は、「なぜ生きるの答えは見つからない」と言い張るのだろうか。

「父の教えていることは、本当に親鸞聖人のみ教えどおりなのか?」

 新門が疑問を持つなら幸いである。今の本願寺で、親鸞聖人のみ教えどおりに説こうとすれば、門主をはじめ、その取り巻きとの軋轢は避けられまい。
 だがそこは若い力に期待しようではないか。本願寺がその名のとおり、【弥陀の本願を最優先に全力で】伝える日の来ることを。

 多くのご門徒の後生の一大事がかかっている。
 結婚式での宣言が、言葉だけでないことを信じたい。

 

HOME


リンク
浄土真宗親鸞会
親鸞会 親子ネット
浄土真宗講座
仏教講座
目次
Homeへ
本願寺門主の本を検証する
西本願寺門主と五木寛之氏の対談
西本願寺門主にインタビュー(中央公論)
寺は何も教えてくれなかった。
 
新着情報 | お問合せ
ご感想をお寄せください。お待ちしています。